原点に還る過程その3- はじめに数ありき

前回は、身体構造の学びそしてそこから得た「循環」する構造が存在の本質を解き明かすのではないか、という個人的見解を書いた。今回は、そのすべての奥底に存在する循環というものが、どのように私たちが存在している時空間、宇宙、地球や自然、生命体ということに展開してくのか、そのロジックについて私なりに気づいたことを書いてみたい。ただし、あくまで私の気づいたことであり科学的根拠などは一切なく、ひとつの創作、フィクションして見ていただければ幸いである。

話は戻るが、身体の構造を学んだあとに取り組んだのが、東洋哲学を学ぶことだった。海外の暮らしにおいて、身近に中国系の人たちの存在や生活というものがあり、また横浜の中華街で見慣れた生活風景よりも生活感のある空間を垣間見るなかで、さまざまな風習を大切にしている姿を見ていてちょっと不思議な感覚に囚われた。また、韓国系の人たちとの触れ合いもあったのだが、彼らのテリトリーはやはりあのハングル文字と辛味なる食事の匂いという、「違う国の人達」ということを手っ取り早く理解させる視覚と嗅覚の刺激というものをまざまざと感じたのだが、とはいえ東アジア系以外の人から見てみたらほぼほぼ中国人系、朝鮮人系そして日本人の区別などつかず一緒の人たちだと思われているわけで、そのほぼほぼ同じような見た目ながらも違いをもたらす原因は何なのか、そしてその3つの人種に共通する何かがあるのかということに興味を持った。

そして当時機会があり、数ヶ月ほどニューヨークとボストンに滞在した。その詳細は別の機会に書きたいのだが、単純に今クリエイションとして何をしているだろうという興味を持ちMITメディアラボに行ってデジタルメディアの最先端を見た時に、本当に微細な違和感みたいなものを感じ、またそれと同じ感覚を学生時代に感じたことを思い出した。大学院生時代に、チームでデザインコンペに参加したところ優勝し、副賞としてフィンランドへ招待されるとともに、コンペの主催元のご配慮により、ヘルシンキの芸術大学やそこで活躍する一線級のデザイナーのアトリエ訪問などがコーディネートされ、またその流れでスウェーデン、デンマーク、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランスといった都市を、建築とデザインという視点で見て回ることがあったのだが、その際にも同じような「自分にはこれは求められていないな」という、微細な違和感と同じことを数十年経って感じたのである。

結局、その「西洋文脈」の流れに存在する科学、都市、文化といったものに対する相容れない何かというものに向き合わない限り、自分にしかできない創造というものができないのではないか、と強く感じたし、そのためには自分の源流を辿るしかないのではないかと思い、日本人としての自分、そしてその背景にある東アジアの文化とはどのようなものなのか、そこを自分なりに学び、身体化しなくては前に進めないだろうと覚悟し、そちらも逃げずに勉強することにしたのである。そのきっかけとして、すでに亡くなっている祖母が残してくれて、押し入れの底に眠っていた東洋占術の本を引っ張り出し、またそれらを教えてくれる学校に入学、数年ほどの期間通うことにした。

日本の文化というものを紐解いていくと大陸からの影響が強いのは日本人の方はご存知だと思うが、思想哲学というものも多大な影響を受けていて、インド発祥で中国を経由した仏教、孟子孔子といった存在は比較的身近な存在として私達の中に根付いていると思う。また洋の東西を問わず科学が発展する以前においては、占術といった未来予測や、陰陽師のような呪術というものは国の運営と密着に結びついていて、その詳細は奥深く説明はしきれないが、私自身はその祖母の遺した「易学」「気学」のテキストに縁があるのだろうと思いそれらから東洋ならではのものの考え方を情報そして知恵として学んでみることにした。加えて役に経ったのは、小中高とカトリック教会とその学校に通っていたことで、西洋的な哲学、思想みたいなものを自らに身体化していたので、東洋的なものの考え方と容易に比較することができたのが大きい。やはり知識だけで考えを巡らせていくのではなく、身体化した状態で考えることに意味があると私は思う。

私がとっかかりとした「気学」は、別名九星気学と呼ばれ、1から9の数字と、それらを3×3の平面のマスに配置した魔法陣のシステムをベースにしたものである。そこで使われる魔法陣は縦横斜めの3つの数字を合算することで「15」となるものでとても簡単な仕組みであり、その中の数字が時間の流れとともにマスの中を動きながら、時間による流れの変化や、空間の状態変化の流れを見て未来を予測したり、都の配置などの空間設計などに活用されてきた。

そして「易学」については、2,4、8と分化する数字に意味をつけて、その8を上下に重ね合わせ、8×8で64個の枠組みを用意、その64の枠組みで森羅万象を網羅するとともに、本来は筮竹(ぜいちく)というもの、またはサイコロで64の答えと関連付けて、未来を予測しようというものである。

この2つに関連して、太陽暦、太陰暦、太陰太陽暦といった「」の勉強が必要になってくる。日本でも身近な「旧暦」であったり、大安仏滅といったものは、中国発祥の考え方で東アジア全般に広く根付いた風習である。西洋、中国、インド、アラブ、それぞれにこの暦を持っていて、それぞれに生活にリズムを持たせるような仕掛けが散りばめられている。

個人的に私が興味を強く覚えたのが、それら東洋占術に散りばめられた「数字のロジックとシステム」である。また、過去には算術など科学的な分野において中国は進んでいたとも聞く。数学や物理などの科学的な探索とは違う世界が、同じ東洋の数字を使った哲学の世界にあることも興味深く、また多くのノーベル賞を受賞した物理学者が「易学」というものに最終的に傾倒していく流れには、何かヒントがあるのではと思えた。このような流れから、この数字のロジックやシステムというものが、私たち存在の根底に存在するルールを規定する何かヒントを持っているだろうということを私は直観した。

例えば、人間のDNA情報は4つの塩基のオンオフで記録され、また音楽のリズムにおいては8のリズムが一般的である。5は五行五芒星といったものに象徴される流れを内包した安定構造であり、左右の指5本ずつを合わせて10になる。私達は3次元という空間に存在するが、量子力学という西洋科学の推測においては11次元までの存在が推測されるという。身近なデジタル技術は0と1という2つの数字の数列でデータを保有していくが、なぜそのような仕組みを基盤としたのだろうか。そういった仕組みを繰り返し見ていくと、果たして現代社会の活用する「10進法」というものはなぜ利用されているのか、なぜ東洋哲学においては1から9までの数字しか使わなかったのか、そういったちょっとした数字に関連した不思議というものが多々存在することに気づいていく。

キリスト教においては「はじめに言葉があった」と言われるが、私は「はじめに数があった」が正しいのではないかと推測している。私が知り得たその数字のロジックやシステムというものについてはここでは書ききれないのでいずれ少しずつ整理していきたいが、数というものを正しく理解し活用していくことは創造の原点であると思うし、また私自身の造形を生み出す上での「素材」となっている。

私が創作する幾何学模様の作り方もすべては「数」のシステムに起因する。装飾美術のみならず、双方向性を有する工業デザインやUI/UXといった造形においても、同じロジックで体験を設計することができると私は思うし、このデジタルの時代においてすべてがデジタル化していくその過程にこの数のシステムみたいなものをもう少し整理して視覚造形のロジックとしてAIに組み込むことができれば、自立したAIの創造システムがより健全に動いていくための、すなわち「美的質感と合理性」の同居する未来のデジタル社会というものにつながるのではないかと思っている。

時空や宇宙、そして物質や生命体、それら存在の全ては循環の流れの中にあり、そして数のシステムを基盤としている。あくまでも私の見解でしかないが、私にとっての原点は一番奥から、ゼロ(無)、循環、数である。そこから時間、空間、電磁波、素粒子、物質という身近な存在につながっていくはずである。

本日のタイトル画像:

Infinite loop geometric pattern No.673
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