なぜ言語化するのか?

私にとって本年10月末日をもって、起業後11年が経過した。そのうち直近の5年間は、いわゆる「研究開発」と「新規事業準備」を進めていたので、いわゆる売上があがってこない状態で進んできた。ちょうど2017年の11月に、それまでの仕事や取引から離れ家族とともに海外に拠点を移した。自分にとってすべてを無に返す作業であり、過去の資産で新しい未来を再創造する期間であった。

 

そのゼロに戻った状態からの5年間は、自分自身に創作に関係した対外的なしがらみは一切ないので、自分の感性で必要なことを辿っていくしかなかった。とりあえず金銭的に余裕がある段階においては、間違いなく今後の大きな意味をなすと盲目的に信じて突き進むことができるので、必要な情報を得るために年単位で家族とともに海外に拠点を移すなど、ちょっと無茶だとは思いつつも効率や優先順位を無視してそのときに必要だと思ったこと、やりたいと思ったことを進めることができた。その後時間が経つにつれてお金は減っていく一方なので、金銭面的な苦しさやそれに関係して融資などのキャッシュフローの問題も大きくなり、そんな中においては自分の決断に必要な道標や選択肢が減っていく、そして時には真っ暗闇の中において突然一本の光り輝く線が奇跡的に現れるといった、ちょっとうまくは説明できないけども導かれるような経験もあったように思う。そのような経緯で、今までやってこなかった「言語化」を本年11月から始めることを決め、自社サイト内にブログを自前で用意することにした。

 

振り返って無に戻る前を思い起こすと、いわゆるデザインという仕事を選んだ後に見てきた世界は、自分にとって正直居心地の良かった世界ではなく、それがサラリーマンクリエイターという立場であっても、そしてなにか違和感が翻って新しいサービス創出につながるんじゃないかと考え起業した後においても、同じように違和感を常に抱えながらアウトプットをすることは続き、その間は自分自身なにかに蝕まれながら生きているような感じだった。そういった違和感を抱え込みながら仕事として何かを生み出していくようなことを死ぬまでやっていくことは想像できなかったし、その違和感を正確に把握したくともできない感じ、論理的に考え抜いても袋小路にはまる繰り返しから抜け出すためには、一度すべてをゼロに戻すしか選択肢はなかった。

 

ちょうどデザインとして建築をやってみたいと思った学生時代から、社会人、起業とひとつ一貫していることは「デジタルテクノロジー」の進化と並走してやってきたことだ。ちょうどWeb1.0のときに学生社会人、Web2.0のときに起業し、今はDXそしてXRの時代である。すべてのクリエイティブなスキルは陳腐化し、テクノロジーと情報の恩恵を受けた後輩世代たちは続々とクリエイティブの世界に参入してくる。私自身は美術史や芸術理論を勉強したきたので、その知識から考えていくと今の現状は「終わりの始まり」という時期といえると思う。かつてウイリアム・モリスは手工業から工業生産にものづくりは変化していく時代において、脈々と編纂されてきた素晴らしい手仕事の流れが途切れることを危惧し抗った。自分はその次代を生きたわけではないので正確には言い表せないが、大きな視点で見たら今の時代はそのウイリアム・モリスの生きた時代よりも大きな変化の渦の中にいるのではないかと考える。

 

なにか大きな変化の中で私が発信できることは「原点回帰」ということだけである。これは私自身が今の社会を見て「こうすべき」だというような発想で抽出した言葉ではなくて、ただ無に戻った自分が今後クリエイティブに携わっていく上で、そして生きていく上で表現できることを端的に表してくれる言葉として使わせてもらっている。私の考えている「原点」とは何なのか、そして「回帰する」とはどういう行為なのか、そういったことは言語ではなく感覚的に脳内に存在してる状態なので、自らの経営する会社のホームページを改定し、その中のブログにおいて少しずつ言語化しながら、読んでいただくみなさまと少しでも共有できればという気持ちが半分、たとえ言語化したとしても多くの方に伝わるような内容ではなく、未来のなにかのために今自分がやらなくてはならないこととしてただ黙々と続けなくてはならないという気持ちが半分である。

 

私の表現領域は視覚を軸にしたものであり、また普遍的な方法論と最先端のテクノロジーをかけ合わせった領域である。ちょっと飛躍して説明不足になるが、その普遍と先端のかけ合わせの領域で「美」を表現することが「原点回帰」の実体化であり、私のできる、そしてやらなくてはいけない唯一の表現となる。これら領域に必要な知識、経験、理論や実験、そして実践を通したフィードバックなど、そういった断片が私の中、そして私のパソコンの中に大量に存在している。現在進行系で進む思考や個人的実験、社会実践などを言語化し伝えていく作業ともに、過去の自分の中の断片をすくい取り再編集し、ひとつの体系のようなものにしていければと考えている。ただ私の本分は視覚表現に関するアート、クリエイションだし、こういったことに取り組み始める大きな推進力はマネタイズ、活動費を得ることだったりしそちらの作業も発生するので、うまくバランスを取りながら、まずは3年位かけて編纂を進めていければと考えている。

 

ここ最近英語やビジュアル脳ばかり使っていた私にとって、今この段階で生まれながらに与えられた日本語で言語化しておくということも、根拠なく何か意味があることだろうと考えている。この文章を書き始めて30分、やはり自分の思考は日本語で動いていることを実感する。海外に住んでいて思ったことは、日本の特異性を生み出す源のひとつが日本語を母国語としていることなのではないかと勝手に思っていて、今回自分の考えていることを日本語で残しておきたい思い言語化を始める作業は、自らの身体やDNAを癒やす作業なのかもしれない。いささか自己中心的な内容に陥りがちで恐縮だが、どこかの誰かのお役に立つことができたならば、生命体としての私にとっても本望である。

 

頭に浮かんだことをさくさくと言語化していきたく、多少の誤字脱字や文章の荒れはご容赦いただけましたら幸いです。

本日のタイトル画像:

Infinite loop geometric pattern No.476
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